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「アングッタラ・ニカーヤ」は「経」の一部


優波離 快慶、大報恩寺(千本釈迦堂)、京都
阿 難 今は個人蔵。元は興福寺(奈良)蔵
入滅(釈尊の死)は前383年頃である。第一結集(けつじゅう)は、入滅から3か月目の雨安居(うあんご)に行われた。「律」は優波離(ウパーリ、持律第一、じりつだいいち)の暗唱にもとづき、「経}(きょう)は阿那律(アーナンダ、多聞第一、たもんだいいち)の暗唱にもとづき確認された。当時は筆記ではなく、マガダ語(パーリ語)の口承であった。
入滅の1世紀後、教義の研究は活発であった。高僧たちは貴族や大商人の保護を受けて生活に不安はなく、教義の研究に励んだ。前280年頃の第二結集で意見対立が激化し、上座部(小乗)と大衆部(大乗)の2派に分かれた(根本分裂)。上座部はスリランカや東南アジアに伝わり、大衆部は中国、日本、中央アジアに伝わった。
「論」は、アショーカ王(前268年頃~前232年頃)の時代に行われた上座部の第三結集で初めて話し合われた。これで、「経」「律」「論」の「三蔵」がそろった。
スリランカに伝わるパーリ語の「三蔵」(ティ・ピタカ)は「南伝大蔵経」ともいわれる。「増支部経典」(アングッタラ・ニカーヤ)は、その中の「経」(スッタ・ピタカ)の一部である。
所収:『万有聖力 心のベクトル場』上巻、48頁
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