top of page

 神論4-5i

 4 神は信じない方がいいのか?

 

 (1) 神の否定

 トマス・アクィナスは信仰が有益であると考えた。①信仰は魂を神に結びつける②信仰は永遠の生命をもたらす③信仰は現在の生活を善へと導く④信仰は、われわれを誘惑から守る。つまり、トマス・アクィナスは「真・善・美の三位一体である神に結びつくことで、人間の不完全性を自覚し、その不完全性を取り除くために、懸命に生きるのである」と考えた。

 一方、エピクロス、ヒューム、ニーチェなどは神を否定した。

 エピクロスによれば、「快が善」「善が幸福」である。身体の「快」は健康、心の「快」は「アタラクシア」である。キリスト教社会に生まれた者は神を正面からは否定しづらい。神にすがれば悩みも消えて楽になる。だが、本当に楽になるためには修行して、試練を乗り越えなければならない。それは本末転倒である。であれば、「初めから神など否定して、自分自身の力で幸せになった方が楽である」と考えた。 

 ヒュームは「知覚できない神を語ること自体が無意味」と考えた。彼は神の存在を肯定も否定もせず、無関心に立った。その結果、「無神論者」のレッテルを貼られ、大学で教鞭を取ることができなかった。

 ニーチェによれば、「人間は、神に自分の醜悪な心の奥底まで見抜かれ、同情されることに耐えられず、神を殺してしまった」。それゆえ、「神は死んだ」。そもそも、キリスト教道徳とデモクラシー(大衆支配)は、「生の上昇」を妨害する奴隷道徳である。叡智、高貴、高潔、力、美等の「生の上昇運動」を大切にしなければならない。これからは、人間が神に従うのではなく、「善悪」の価値基準を「優劣」の価値基準に転換して、人間自身が生の充実を自由に生き抜く優れものにならなければならない(『力への意志』)。

〔(1)は鷲田小彌太『哲学ドリル』(すばる舎、2001年)を参照〕

 (2) ほんとうにほんとうの神さま

青 年   「あなたの神さまってどんな神さまですか」

ジョバンニ 「ぼくはほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです」

青 年   「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です」

ジョバンニ 「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうのほんとうの神さまです」

青 年   「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前に、わたくしたちと

      お会いになることを祈ります」

                                                                                   (宮沢賢治『銀河鉄道の夜』)

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教をはじめとする宗教は、文化や主義の違いこそあるが、多くの共通点をもつ。精神よりも物質を第一義的に考える唯物論でさえ、神を論じることを拒まない。

 『銀河鉄道の夜』の登場人物は、誰の神様が本物か言い争うが、神が確かに存在し、本当の神がたった1人であるという点に関して共通の認識をもつ。そこに、宮沢賢治の文学の世界性がある。

 

 (3) 宗教がなかったら

 Imagine there’s no countries    もしも国境がなかったと想像してごらん

 It isn’t hard to do        難しいことじゃないさ

 Nothing to kill or die for     殺し、殺される理由も

 And no religion too       宗教もない

 Imagine all the people            想像してごらん、人々が

 Living life in peace                平和に暮らしていると

              (ジョン・レノン「イマジン」)

 ここで「宗教がない」というのは無神論を意味しない。宗教の違いで殺しあことを否定しているのである。

 5 唯物論的神論

 

 (1) 本質は現象する

 唯物論的有神論に立とう。といっても、弁証法唯物論者にとっての神はマンガに出てくるおじいさんのようなものではない

 「本質は現象する」(ヘーゲル『大論理学』第2部「本質」)。この法則こそ世界を支配する唯一の法則である。たいへん時間はかかるが、本質は必ず現象する。長い間の苦労は、それが的を得ていれば報われる。的を得ていなければどんなに苦労しても必ず失敗する。人は、その失敗によってより適切な苦労をするよう導かれる。結果がすぐには現れないために、この法則を理解できない者がいる。

 「本質は現象する」とは、別の言葉でいえば「すべて神が見ている」ということである。弁証法的唯物論者が信じる神とはこういう神のことである。

 チベット仏教の精神的指導者ダライ・ラマ14世はノーベル平和賞を獲得した。

 カルマパ14世やパンチェン・ラマ11世は幼少時から尊敬を集める。活仏は、先代が生前に残した予言などをもとに生まれ変わる場所を見つけ、条件に合う子どもの中から選ばれる。自らの努力によってその地位を得たわけではないのに尊敬されるのはなぜか?実は、活仏は生まれながらに尊いのではない。その宗派の理論、実践の第一人者であることが求められ、その通りに生きるから尊いのである。

 それと同じで、人間が若いうちから高い目標を掲げ、そのことで周りの期待が集まったとする。それでつぶれる人間はたいしたことがない。期待に応えて努力を続けた者が尊敬される。若者が苦労を乗り越え、成長する過程が尊い。これも「本質が現象する」法則の具体例である。

 内容と形式は表裏一体である。内容の伴わない形式は必ず滅びるが、形式に内容が追いつくと市民権を得る。「合理的なものこそ現実的であり、現実的なものこそ合理的である」(ヘーゲル『法の哲学』)という弁証法の法則は、内容の伴わない形式、すなわち不合理な形式が滅びることを意味する。すなわち、良いものは良い結果につながり、悪いものは悪い結果につながる。

 (2) 神の前に一人立つ

 科学万能主義、数学万能主義は1つの宗教に過ぎない。科学や論理で解決できることは意外に少ない。とりあえず、唯物論的に、あるいはゲーム理論的に分析できることはしてみる。だが、かなりの部分がわからない。

 結局、宇宙の法則に身を委ねるしかない。できるかぎりの思考と努力をしたら、あとは神が決めたことに従うしかない。キェルケゴールの言うように、美的段階、倫理的段階の次は宗教的段階に移行せざるを得ない(『人生行路の諸段階』)。

 それでも、唯物論者は初めから神に頼ることはしない。唯物論的にできるぎりぎりの努力をした上で、神に身を委ねる。科学的に不可知な領域を神によって説明する。つまり、唯物論の延長上に神をおく。そうでなければ、神にも失礼である。

 (3) 神の前の平等

 ホッブスは「万人の万人に対する闘争」を回避するために国王による支配を考えた。だが、それは平等主義に反する。イスラム教では神の前にみな平等。ムハンマドでさえ単なる使徒であり、偉くない。階級社会を回避するために、人間の支配者の代替物として神をおく。

 日本国憲法で「法の下の平等」が唱えられたのは20世紀である。リンカンによる奴隷解放、アレクサンドル2世による農奴解放も19世紀である。ムハンマドは7世紀に弱者解放の預言を伝えた。福澤諭吉が「天は人の上に人を造らず」(『学問のすすめ』)と唱える千年以上前に、人間の平等を説いたイスラム教は画期的である。

 世界には英語を話す人が10億人以上いる。そして、中国人が10億人以上いる。同様に、ムスリムが10億人以上いる。よって、国際人となる上で、イスラム教を理解することは英語を勉強することと同じくらい重要である。

 

 (4) ザカート

 どこの国でも大災害の後は寄付が集まる。弱者に対する寄付行為は世界中で普通に行われている。だが、寄付「する人」と「される人」という上下関係ができるのが問題である

 イスラム世界では神に対するザカート(喜捨)が行われ、神から弱者に必要物が届けられる。神を媒介することで、寄付「する人」と「される人」という上下関係が回避される。弱者救済の媒介する神の機能は合理的である

 社会保険制度が十分に整った先進国に生まれた者は恵まれている。だが、世界中の貧しい人々を今すぐに救うには、ザカートのようなシステムは合理的である。

 現に、ソ連の崩壊、東欧の民主化後、世界中でイスラム教徒が増加した。マルクス・レーニン主義で救いきれなかった人々が、イスラム教によって救われることは好ましい。

 (5) 唯物論的神頼み

 勉強する間も惜しんで神を称えても勉強ができるようになるはずがない。だが、ふだん全生活を勉強に費やし、ぎりぎりの努力をしている人が神に頼るのは効果的である。「神様お願い」と、真剣な気持ちを形にすることで、真剣さはいっそう増すであろう。それを見ていた周りの人も真剣に協力してくれるに違いない。よって、神仏への祈願は勉強に効果的である。

 目標を言葉にしよう。何でも言葉にすれば実現する可能性が高くなる。「やればできる」と言った後に本当にやるから効果がある。これが言霊(ことだま)である。言葉を発することにより、その意志を再確認し、さらに強い意志でことに望む。そして、周りの人の協力も得やすくなるので、本当に目標が実現する可能性は高まる。

 すなわち、言霊は本当にある。これは唯物論的に言えば「精神の物質化」に他ならない。ゆえに、唯物論者も神頼みをする。現実世界でぎりぎりの努力をしている人が精神世界で神と結びつくと本当に強い。努力の延長上に神をおく。本当に必死で努力している人は信心深くなる。神はそういう人の味方である。

 「必死」とは、必ず死ぬと書く。戦争中は本当に命がかかっていた。受験、就職、結婚等で失敗しても死なないが、死ぬ気で頑張れば夢はかなう。

ニーチェ

1882年の肖像

宮沢賢治1924年の肖像

「The JOHN LENNON Collection」(東芝EMI)

筆者が所有するCDのジャケットを自ら撮影

ヘーゲル

1

ダライ・ラマ14世

筆者が所有する書籍を自ら撮影

キェルケゴール

1840年の肖像画

bottom of page