神論2-3i

プラトン像
アテネ大学前
プラトンは神の存在を認めていたが、神の絶対性、唯一性は認めなかった。描かれた三角形は、三角形の「観念」(イデア)の「模造」(ミメーシス)に過ぎない。「完全な三角形」は「3つの線分で囲まれた平面図形」のイデアとして存在するが、決して描けない。プラトンにとって、イデアこそが絶対唯一で不変不滅のものであった。イデアは非感覚的なものであるが、理性によって理解されるものであるから信仰の対象ではない。
(2) スピノザ「神=自然」
スピノザによれば、「神=自然」である。「自然」に不可解なものは何もない。あるとすれば、それは人間の理解が追いつかないだけである。人間が理解しようがしまいが、信じようが信じまいが、「自然=神」である。

「ヘラとゼウス」前460年頃、セリヌンテのヘラ
神殿メト―プ、パレルモ国立美術館
(3) ユダヤ・キリストの民族神
ユダヤ・キリストの神は民族の歴史の中で形成された民族神である。民族神は民族の文化の一部として尊重され得る。だが、人類の歴史の中で、宗教が他者に押しつけられ、支配の道具とされた歴史も否定できない。
(4) デカルト「神=無限」
デカルトによれば、「自然」(世界=宇宙)は自身の力で運行する。「人間」は対象を理解するための思考能力(理性)をもっているので「自然」を理解し得る。よって、神という考えは不要である。ガリレイと同時代人のデカルトである。表現が誤解されれば迫害の対象とされたに違いない。
賢明なデカルトは言い換えた。「神=無限」が「自然=有限」を創造した。この最初の一撃である自然創造の後、自然は自然自身の力で運行している。人間は有限であるが、人間の理性は無限である。無限の理性は、無限である神から分与されたものである。自然の運行も、人間の理性も、神によってコントロールされている。それゆえ、秩序的である。
3 絶対者としての神
(1) 信じるから存在する
アウグスティヌスは新プラトン派の哲学でキリスト教を説明しようとした。彼によれば、神の中にあるイデアが新プラトン主義的な「流出」によって人間の精神に与えられる。そして最高の真理が啓示され、人間の心の所有となる。これは信仰によってのみ可能となる。
アウグスティヌスにおける神の存在証明は、すでに信仰によって承認された神の存在を意識の疑い得ない事実として記述することにより、これを知識の領域に移すためのものであった。
(2) 完全ゆえに存在する
スコラ哲学においては、神の存在を論理的必然性によって推論的に論証するものに変わる。
アンセルムスは、プラトンの哲学を用いてキリスト教を説明しようとした。彼は「まず信じ、それから理解する」と言う。「人はまず信仰しなければならず、理解する能力のあるものはそこから認識へと進む」と言う。「神は、最高、完全、絶対である。最高、完全、絶対なるものという神の概念は存在性を含む」という神の存在論的証明は、信仰内容の理性による理解の実例をなしている。
(3) 存在するから存在する
物事には原因がある。その原因にも原因がある。「ニワトリと卵」の無限の連鎖があるにしても、究極的な「第一原因」がある。エネルギー保存則によって説明すれば、その「第一原因」は何らかのエネルギーであるに違いない。その「第一原因」を神と名づければ、神はいる。
「自然そのもの」「宇宙そのもの」「世界そのもの」を神と名づければ、やはり神はいる。つまり、自分にとって、包括的、総合的、全体的なものを神と名づければ神は絶対にいる。最初から存在するものを神とよぶのであるから、神はいるのが当然である。
(4) やはり、信じるしかない
もっと積極的な意味での、創造主としての神はどうやって証明するか。
アンセルムスが神学と哲学の直接的一致をめざしたのに対し、アリストテレス主義に立つアヴェロエスは「理性の真理と信仰の真理」とが矛盾し排斥しあう場合があることを指摘し、二重真理説を唱えた。
それを受けてトマス・アクィナスは、もはやアンセルムスのような素朴な形での理性と信仰の一致を説くことはできなかった。トマス・アクィナスの使命は、アリストテレス主義を逆手にとって二重真理説と対立することにあった。
トマス・アクィナスは、神学の領域と哲学の領域が異なること、すなわち超自然的な啓示的真理と自然的な論証的真理が異なることを、ある程度まで認めた。
だが、トマス・アクィナスによれば、両者のあいだにあるのは矛盾対立ではなく、差異にすぎない。超自然的真理と自然的真理はともに神に由来する以上、矛盾対立するはずはないとし、「啓示可能なもの」である自然的真理を神学の体系に加えた。
カントは『純粋理性批判』の中で「自由意志」「霊魂」「神」の存在を証明しようとした。
人間は、知覚能力(感性)、先験的な認識能力(理性)を通して、「現象」を認識する。人間の外部にある「物自体」は決して認識できず、「物自体」が発現する「現象」を認識するにすぎない。
カントにあっては、神は超自然的、超人間的存在であるから、人間が認識することができるはずもない。「思考」(denken)はできるが、「認識」(erkennen)はできない。つまり、神の存在を論理的に証明することは不可能である。
それゆえ、カントは『実戦理性批判』では、神の存在は信じるしかない、信じていこう、という立場に到達した。
だが、人間が善悪の判断をする際の絶対的な基準はどこかにある。カントは、「人間の内なる法廷の意識」である「良心」こそが「神の声」であると考えた。
つまり、トマス・アクィナスもカントも神の存在に関しては「信じることしかできなかった」と言える。

「デカルト」
1

アウグスティヌス
ボッティチェリ画

トマス・アクィナス
フラ・アンジェリコ画

カント
Döbler画、1791