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                                                                                                                  神論11

 1 八百万の神

 

 (1) 国家神道

 森友学園が幼児に教育勅語を暗記させていた事件は記憶に新しい。

 戦前の日本では天皇と神が結びつけられ、神聖な天皇を中心とする国歌が国民を統治していた。それが軍部による暴走を許す素地となり、多くの国民が犠牲になった。アジアの人々にも惨禍をもたらした。

 その反省から戦後の日本は天皇と政治の関係を断ち切り、国民主権を確立して再生を果たした。国家神道の考え方は象徴天皇制、国民主権を否定する。また、精神的自由をはじめとする基本的人権の尊重原理にも反する。「昭和の日」を「昭和天皇の日」と考えることも危険である。

 政教分離の原則が掲げられたのも、国家神道の過ちを繰り返さないようにするためである。ゆえに、信教の自由、政教分離を定めた憲法20条は、特定の宗教の押しつけを排するだけでなく、信仰を持たない自由も保障する。

 憲法の根幹を否定し、近代立憲主義の考え方を疑うような議論は、学問や思想の世界ではありえる。だが、為政者は慎重であるべきである。

 教育勅語の序文は、日本の教育が皇室を中心とする日本独特の「国体」に基礎をおくべきであると語る(佐藤秀夫『学校ことはじめ辞典』参照)。「国体」は、戦前の天皇中心の国家体制を示す言葉として使われた経緯がある。教育勅語推進派は「親孝行や兄弟の仲」をもち出すが、それは教育勅語を持ち出すまでもない。

 教育勅語教育勅語推進派は「親孝行や兄弟の仲」をもち出すが、それは教育勅語を持ち出すまでもない。教育勅語を高等教育における史料として利用する分には問題がない。だが、幼児や小学生に暗記させることは望ましくない。

 (2) 神=人間の本質

① アニミズム

 まず、「人間の理解を超えたもの」「超越したもの」が神となった。

 科学がなかった古代、自然の威力に対する脅威があった。人々はあらゆる自然物や自然現象に霊魂の存在を認め、その加護を願うとともに、その怒りにふれないように努めた。それを自然崇拝、精霊崇拝、アニミズムという。霊魂の信仰が、やがて自然の神となり、種族の神となり、民族の神と発展した。

② 「忠」の神

 奈良時代、称徳天皇の寵愛を受けた道鏡は太政大臣禅師、法王となって権勢をふるった。大宰府の主神(かんずかさ)習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)は「道鏡を皇位につければ天下は太平になる」という神のお告げがあったと奏上した。称徳天皇は神託を確認するために和気清麻呂を大分の宇佐八幡宮へ派遣した。その時、道鏡が清麻呂を呼び、「もし自分を即位させるように奏上したら重用する」といった。だが、清麻呂は「わが国では君臣の別は昔から決まっている。もし無道のものがあったらすみやかに除くように」という神のお告げがあったと奏上した。それで、清麻呂は道鏡の逆鱗にふれて流された。

 称徳天皇の死後、道鏡は失脚し、都に戻された清麻呂は光仁、桓武天皇に仕えた。当時、天皇に対する「忠」は「悠久の大意」であった。よって、和気清麻呂は京都の護王神社に奉られた。

 天皇に対する「忠」のことであれば楠木正成も負けていない。南北朝の戦乱の際、後醍醐天皇側について奮戦し、ついに足利尊氏に敗れた楠木正成(まさしげ)は神戸の湊川(みなとがわ)神社に奉られた。

 ③ 「武勇」の神

 前九年の役に戦勝を祈願した源頼義は、戦後奉賽報謝のために相模国由比郷に石清水八幡を勧請した。それを義家が修繕した。武士の理想は「武勇」である。武勇に優れた義家が「八幡太郎義家」として奉られた。八幡神の神徳は源氏の興隆とともに増し、全国に広がった。

 頼朝が幕府を開く時、石清水から小林郷北山に遷され、さらに本宮、和歌宮、末社と遷宮された。これが鶴岡八幡宮の正式奉納である。その結果、頼朝は征夷大将軍となった。

 八幡宮は、源氏一族の氏神にとどまらず、幕府の宗祀となり、武家全般を抱擁する崇敬を集めることとなる。足利、徳川氏も源氏の流れを汲むところから、鎌倉、室町、江戸時代を通じて八幡信仰は一段と普遍化した(八幡信仰に関しては真弓常忠『神道の世界』朱鷺書房を参照)。

 このように、日本には多くの神がいる。それぞれの神は人間の理想を抽象化したものである。その点、キリスト教もイスラム教も一緒である。

 「道徳的に完全な本質(存在者)としての神とは、道徳の理念が実現されたもの・道徳律が人格化されたもの以外の何物でもない。このような神はまた、人間の道徳的本質が絶対的本質(存在者)として措定されたもの以外の何物でもない。道徳的に完全な本質(存在者)としての神は人間自身の本質である」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。

 つまり、「神の国」というのは、決してユートピアでもイマジナリーでもなく、現実のことである。だが、日本は「天皇を中心とする神の国」では決してない。「八百万の神の国」である。

 (3) 信教の自由

 世界には、イスラム教の唯一神アッラーやギリシア神話の神々など、多くの神がいる。日本にも八百万の神がいる。だが、自分が信じる神と異なる神を信じる人を軽蔑してはならない。また、自分の信じる神を他者に押しつけてもいけない。

 日本国憲法20条は「信教の自由」を保障する。どの神を信じてもよい。どの神も信じなくてもよい。

 津地鎮祭事件で最高裁は、国家が特定の宗教を援助、助長したり、他の宗教に圧迫、干渉を加えない場合は、政教分離原則に反しない、との判決を下した(1977年7月13日)。逆に、閣僚が特定の宗教を応援する行為は許されない。

 アフガニスタンのイスラム原理主義団体「タリバーン」による仏像破壊は許されない。といって、イスラム教を否定して、ムスリムを侮辱することも合理的ではない。世界平和を語る唯物論者であれば、むしろ積極的にイスラム教を理解し、イスラム世界との共生をめざすべきである。

 「唯物論=無神論」ではない。実際、無神論も1つの宗教に過ぎない。「神を否定する唯物論者」は単なる勉強不足の人である。フォイエルバッハのように神の存在を真正面から受け止め、真剣に神を語ることこそが唯物論者の努めである。

 弁証法的唯物論者は「寛容なムスリム」であり得る。酒や豚肉を口にする時はムスリムではなくなる。それでいいのである。

 だが、カルトは駄目である。カルトは人の信仰心を利用して、精神を侵略し、財産を巻き上げる。個人を崇拝し、短期間で立派な建物が建つ。お布施と称して集めた金の大半は教団幹部の「おこづかい」となる。

 カルトは「信教の自由」の範囲外である。友人がオウム真理教、アレフ、統一教会に誘われた場合、早い時期に止めるべきである。誘いに乗れば、マインドコントロールがかけられて判断力を奪われる。友人がカルトに入会し、出家した場合、すでに洗脳が完了している場合がある。むやみに近づくことは危険であるから、専門家に相談するべきである。

 憲法20条〔信教の自由〕

 ① 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 ② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 ③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 

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