top of page

     核兵器廃絶は国民の総意

 部分核停

 61年にソ連が核実験を行った際、民社党・同盟系は「いかなる国の核兵器にも反対」として核禁会議を結成した。ソ連は62年にも核実験を行い、共産党は「社会主義国の核兵器は侵略防止のためのものである」(上田耕一郎「前衛」62年10月号)、「米国が平和の敵である」という主張を強めた。

 63年に地下核実験以外の核実験を禁止する部分的核実験禁止条約(部分核停、PTBT)が発効した。今は包括的核実験禁止条約(CTBT)に対してPTBTと略すべきであるが、当時はCTBTがなかったために部分核停と略された。

 共産党は「地下核実験を認めることになる」という理由で部分核停に反対し、社会党・総評系は「いかなる国の核実験にも反対」という理由で部分核停を支持した。対立は激化し、社会党・総評系は65年に原水禁を結成した。それにより、共産党系の原水協、社会党・総評系の原水禁、民社党・同盟系の核禁会議に分かれた。

 米ソは74年に地下核実験制限条約(TTBT)、76年に平和目的地下核実験制限条約(PNET)に調印した。TTBTとPNET150ktを超える地下核実験を禁止している。

 CTBT96年に国連で採択され、97年に日本が批准した。米中はCTBTに署名したが批准していない。米露は豊富なデータをもとに臨界前核実験を繰り返しながら他国には核実験禁止を求めている。

 インドとパキスタンは98年、北朝鮮は06年に核実験をし、CTBTに署名もしない。この3国からすれば、これまで核兵器開発を進めてきた米国こそ巨悪である。

 「地下核実験を認める部分核停も臨界前核実験を認めるCTBTも意味がない」という考えと、「部分的禁止でも意味がある」という考えが対立する。

 

 核拡散防止条約

 核拡散防止条約(NPT)は当時の保有5か国以外の保有を認めないものである。68年に調印され、70年に発効した。日本は70年に署名し、76年に批准した。92年に中仏が加盟し、米英露を含む5か国がそろった。25年目の95年には無条件・無期限延長が決まった。

 5か国の保有を認めることに対しては当初から批判がある。新たな保有国であるインド、パキスタンと保有が確実とされるイスラエルは未加盟であり、北朝鮮は脱退している。

 NPT再検討会議は5年に1度開かれる。00年は核廃絶への「明確な約束」、10年には核廃絶への64の行動計画が決まった。

 15年の会議では世界の指導者に広島・長崎訪問を促す案に中国が反対した。また、米国が中東非核地帯構想に反対し、最終文書そのものが採択されなかった。

 非核地帯条約

 これまでに発効した非核地帯条約は、宇宙条約、海底条約以外では南極条約(61年)、中南米核兵器禁止条約(トラテルコ条約、68年)、南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約、86年)、東南アジア非核兵器地帯条約(バンコク条約、97年)、アフリカ非核兵器地帯条約(ペリンダバ条約、09年)、中央アジア非核兵器地帯条約(セメイ条約、09年発効)がある。

モンゴルは92年に非核兵器地帯宣言をし、98年に国連総会で歓迎決議が採択された。日本と朝鮮半島を対象とした北東アジア非核兵器地帯構想はあるが、06年と09年に行われた北朝鮮の核実験により実現は困難となった。

 反核vs反核兵器

 原発を含む核に反対する原水協・原水禁は反核を主張する。原発推進のKAKKINは反核兵器を主張する。原水協は核兵器廃絶を唱え、部分核停や核凍結などの部分的措置を認めないので協力は難しい。

 それでも、05年から12年の夏は連合・原水禁・核禁会議が広島、長崎で平和大会を共催した。だが、11年の福島事故後、原発推進の核禁会議と脱原発の原水禁の亀裂が深まった。12年の平和大会で原水禁が脱原発を主張し、核禁会議が反発したため、13年に分裂した。核禁会議は14年にKAKKINと改名した。15年はNPT再検討会議に合わせた署名活動で三者は共闘した。

 

 目的の明確化 ランチはご一緒に

 平和大会の共催が目的であれば脱原発も原発推進も排除されるべきではない。原水禁所属の原発推進派個人、KAKKIN所属の脱原発派個人もいるであろう。原水禁もKAKKINも自派の見解を押しつけるべきではない。反核兵器が目的であれば原水協、原水禁、KAKKIN、連合が協力するべきである。反原発が目的であれば原水協、原水禁、連合が協力するべきである。反自民が目的であれば全野党が協力するべきである。

 人は考えが異なるからこそ話し合う。朝に激論を交わしたならばランチを共にする。午後はまた激論を交わしてディナーも共にする。「意見が違うがいい人だ」となり、超党派の趣味友をつくる。インフォーマル組織の重要性はホーソン実験でも示されている。

 原爆投下正当化論

 トルーマンは「戦争の苦しみを早く打ち切るために、数千人の米国の若者の生命を救うために原爆を投下した」(45年8月9日)、「連合国将兵25万及び日本人25万人が完全に破壊から救われると推定した」(広島市議会宛て書簡、58年3月14日)と公式に述べた。

 だが、米政府の本音は「原爆投下と戦争終結は別」というものであった。

 トルーマンはポツダム会議の最中、「ソ連の参戦で日本は降伏する」と述べ(7月17日)、翌18日に原爆実験成功の報告を受けて「原爆投下で、ソ連参戦前に日本は降伏する」と述べた。

 バーンズ国務長官は「原爆が投下されたときには、日本はすでに敗れており、講和を求めていた」「原爆は日本を打ち破るために必要なのではなく、ソ連をもっともコントロールしやすくするためだった」と述べた(「ニューヨークタイムズ」45年11月)。

 フェラーズ准将は「天皇が降伏を決意して終戦を図ろうとしたのは45年2月からであって、原子爆弾が日本の降伏をもたらしたのではない」と述べた(「リーダーズ・ダイジェスト」47年9月)。

 原爆投下直後、米国人の85%は「投下は正当」と答えた(米ギャラップ)。今、「正当」と考える米国人は56%に減った。65歳以上70%、18~2947%であり、若者は半数が「正当」と考えない(米ピュー・リサーチ・センター、15年4月7日)。

 広島の原爆資料館は「米国は原爆により戦争を終結することができれば、戦後の国際社会でソ連より優位に立つことができるとも考えた」「20億㌦の経費と最大時には12万人以上を動員して開発したことを国内向けに正当化する必要もあった」と解説する。

 久間章生(防衛相)は07年、「米国はソ連が日本を占領しないよう原爆を長崎に落とした。悲惨な目にあったが、あれで戦争が終ったという頭の整理で、今しょうがないなと思っている」と述べ、大臣辞任に追い込まれた。

 核武装議論容認論

 安倍晋三(官房副長官)と福田康夫(官房長官)は02年に核武装発言をした。

 安倍が「自衛のための必要最小限度を超えない限り、核兵器であると、通常兵器であるとを問わず、これを保有することは、憲法の禁ずるところではない」「核兵器は用いることができる、できないという解釈は憲法の解釈としては適当ではない」と述べ、福田が「非核三原則は憲法に近いもの。しかし、今は憲法改正の話も出てくるようになったから、何か起こったら国際情勢や国民が『(核兵器を)持つべきだ』ということになるかもしれない」「法理論的には持てる。持っていけないとの理屈にはならない」と述べた。

 安倍晋三(首相)は06年、は「核保有という選択肢は全く持たない。非核三原則は一切変更がない」「政府や党の機関としては議論しない。それ以外の議論は自由だから言論封鎖することはできない」と述べた。

 つまり、核武装議論を国民がすることは自由であるが、政府がすることは許されない。

 日本国民の総意

 「原爆投下は悪」「核武装は悪」は世界の常識ではない。だが、日本政府関係者が「投下の正当性」「核武装」を肯定すれば失脚する。つまり、その否定が国民の総意である。国民の総意を世界に伝えることは政府の責務である。

 部分核停、核拡散防止、非核地帯、原発には賛否両論あるが、広島・長崎・福島の悲劇の伝承は国民の総意である。後世に事実を伝えることは今に生きる者の責務である。

 吉永小百合は66年の映画「愛と死の記録」や81年のドラマ「夢千代日記」の出演で原爆に関心をもった。86年からボランティアで原爆詩の朗読を始め、11年にオックスフォード大に招かれた。CD版「第二楽章」は97年「広島編」、99年「長崎から」、06年「沖縄から」、15年「福島への思い」の4枚がある。

 相違点の明確化

 相違を恐れて意見を言わない人は幼稚である。意見が違う人とケンカする人も幼稚である。意見の違いを明確にして仲良くする人が大人である。

意見が違う人と仲良くすることを平和共存という。意見の違いを放置して仲良しのふりをすることを思想上の平和共存という。思想上の平和共存では声が大きい人や政治力のある人が台頭する。

 他人の話を聞き、自分の意見も言うべきである。違いを明確にして正確に記録して後世に伝えることは、今に生きる者の責務である。

bottom of page